永憐《ヨンリェン》と宇辰《ウーチェン》は宋武帝《そんぶてい》のいる紫王殿へ到着した。
中に入り、普段通り宋武帝と顔を合わせる。 宇辰は宋長安専属の刀鍛冶の接待へ向かう為、席を外した。「永憐、体調はどうだ?良くなったか?」
宋武帝が茶を啜りながら尋ねる。
永憐は「お陰様で」と出された茶を啜りながら言葉を繋いだ。「ところで、どうされたのですか?」
「うん。実はな、華宴《かえん》を開こうと思ってな」
「華宴ですか?」
永憐は少し眉間を寄せ、聞き返す。
宋武帝は窓辺に向かい、穏やかな表情で話し出した。「艶福家《えんぷくか》のお前も、而立《じりつ》を過ぎた男だ。そろそろ、妻を娶ったらどうだ?」
「…いや。私は色欲を絶っていますので、そのようなことは」
永憐は表情一つ変えず、やんわりと断る。
宋武帝は窓側に顔を向け、言葉を続けた。「やはり、まだ前を向けぬか?」
「……」
永憐の顔色が少しずつ曇る。宋武帝は静かに外を眺め始めた。
永憐の頭の中に一人の女性が浮かぶ。それは、祝言を挙げる予定だった美雨《メイユイ》の姿だ…。あれは確か、祝言を翌週に控えていた夏の夕暮れ時だった。
蝉の鳴く音が山中に響き渡る中、これから住み始めようと永憐が買った家まで二人で歩いていた。「ねぇ、⁑永郎《ヨンロウ》!(⁑郎はより親しく呼ぶ名)母上が、私の祝言の為に花嫁衣装を縫ってくれたの。とっても綺麗な花の刺繍が入っててね、早く永郎に見せたいんだけど、それでね髪にもね、豪華な飾りを町の人たちに作ってもらって、それを付けようと思ってるの〜」
「うん。似合うと思う」
「本当〜?でね、でね〜、、、」
美雨は相手に話す隙を与えないほど、よく話す女だった。父・心悦の知り合いの商人の娘で、持ち前の明るさが有名な町一番の看板娘でもあった。殺戮ばかりしている永憐に、少しは穏やかになれと心悦が縁談を持ってきたのだ。美雨の熱烈な打診からあっという間に祝言まで辿り着き、今に至る。
そんな会話をしていると、目の前で宋長安の衣を羽織った護衛の二人が、三歳の男児とその母親を庇うように立ち、剣先を何者かに向けているところに出会《でくわ》した。永憐は美雨に「ここで待っていろ」と伝え、宋長安の助太刀に向かった。
「通りすがりの剣門山の者です。助太刀いたします」
「王《ワン》家の道長《どうちょう》殿!助太刀、心より感謝申し上げます!お気をつけください!先日も宋長安付近で女と子どもを食べていた女の妖魔です。恐らく、玄天遊鬼《ゲンテンユウキ》の傀儡《かいらい》かと」
また玄天遊鬼か!と永冠《ヨングァン》の握る手に力が入った。
宋長安の護衛たちが宋長安の代表的な魔除けの術である『神札《じんさつ》』を母親に持たせ、陣を張る。 女の妖魔は額に青筋を浮かび上がらせ怒りをぶちまけるかのように、永憐たちに飛び掛かった。一人の護衛が剣を妖魔に刺したが、妖魔も負けじと護衛の頭を思いっきり捻り、首の骨を折った。もう一人の護衛もその後に続き剣先を向けるが、手斧《ちょうな》のような爪で手の甲を抉られ、その場で手を負傷してしまう。すると、護衛が放った神札の術が溶け出し、瞬く間に女を庇っていた陣が消えていく。 「これはまずい」と、永憐は妖魔の鋭利な爪の攻撃を何度か躱し、攻撃を加えるが、一瞬の隙をつかれてしまう。その隙をついた妖魔が男児を掴もうとした刹那、何かが永憐の横を通り抜けた。 ほんの一瞬の出来事だった。 永憐は一瞬何か分からなかったが、ハッとして目線をそちらに向ける。すると、美雨が男児を庇うようにして横たわり、その小柄な背中から血飛沫をあげていた。 「美雨!」永憐は妖魔の爪を永冠の柄頭で叩き割り、妖魔の首と胴体を切り裂いた。女の妖魔は「私の子を返せ…」と涙を流しながら、ただの女性の死体となって横たわる。
男児の母親は「私たちのせいで…ごめんなさい…」と、美雨の顔をさすりながら咽び泣いている…。 美雨が永憐との別れを惜しむかのように、その場に涙雨が降りそそいだ。記憶を断つかのように、宋武帝の声が突如降りてきた。
「お前の助太刀と、お前の伴侶の命と引き換えに、今は亡き紫秞妃と幼い賢耀が助かった…。今も、この恩は忘れていない。だからお前をここの国師にしたんだ。ただ、余計な世話かもしれんが、お前には幸せになってもらいたいんだよ…」
永憐は静かに宋武帝を見上げる。
宋武帝は永憐と向かい合うように座り、続ける。 「朕とお前はよく似ている。良い男も、歳を重ねると良い縁談はもらえなくなるからな。前を向けるのなら早い方がいいぞ」永憐はしばらく間を置いて「努力します…」とだけ伝えた。宋武帝はそれ以上、永憐に触れることはせず、別の話を振る。
「まぁ、そんな耀もいい歳になった。耀の花嫁選びというのもあってな。どうだ?誰かおらぬか?」
永憐は親友の深豊《シェンフォン》が言っていた、橙武帝《とうぶてい》の一人娘・橙美凛《トウメイリン》を打診した。 宋武帝はよし!と意気込み、橙武帝に向けて鶴紙を書き出した。その様子を横目に永憐は「光明《コウミン》殿下もご参加されるのですか?」と問う。すると、宋武帝は筆を止め、溜め息を吐きながら眉間に皺を寄せた。「皇后の手前、表面上は参加させるつもりだが…、あいつは衆動《しゅうどう》に明け暮れているらしい」
「衆動…ですか」
永憐は剣豪であっても、男色の世界には精通していない為宋武帝に何と言ってよいのか分からず、口を閉ざした。
「衆動を咎めはしないが、全く光華妃といい、光明といい、あの二人には頭を悩ませてばかりだ…」
宋武帝から、今日一番の深い溜め息が漏れる。
それからしばらく永憐は、宋武帝の悩みの種を聞きながらこれまでの心痛を宥め、夕餉頃になって紫王殿を後にした。 それから三日も経たないうちに、華宴の噂は瞬く間に広がった。今日も医局は賑やかだった。「耀《ヤオ》さまと明《ミン》さまのお相手探しの宴だって〜」
「や〜ね、そこにはあの堅物大魔王、王《ワン》国師も含まれてるって話よぉ〜」
「え〜、私、もしかして呼ばれちゃう?」
「んなわけないでしょ!あんたみたいなオカマが!」
騒がしい医局では、オカマ医官と入り浸つようになったオカマ患者数名が、冗談を交えながら盛り上がっている。
蘭瑛《ランイン》と秀綾《シュウリン》は「へぇー」と私たちには関係ないといった様子で、茶を啜っていた。
「お二人の皇太子の御成婚はすぐに叶いそうだけど、あの堅物大魔王…いや、永豪君《よんごうくん》が御成婚となったら、ここの女たちは一体どうなるのかしらね〜?!嫌よ、私は!そんな恋に敗れた女たちの面倒見るのー!」
江医官が手を振りながら嘆く。
蘭瑛は思わず吹き出してしまい、確かにそうだと頷いた。 その横から面白おかしく秀綾が続ける。「流行病じゃなくて恋煩いの病が流行るかもね〜。ねぇ!蘭瑛。今のうちにさ、恋煩いの薬でも作んない?」
秀綾は調薬になると目を輝かせる。
「いや…」と言って、蘭瑛は秀綾と向き合うように、机を挟んだ前に座った。「六華鳳宗では管轄外。艶薬《つやぐすり》しか作れない」
「何?!その艶薬って!」
「ん〜、事中の維持継続に良いとされるものや、男性の本懐を遂げるものとか、圧倒的な催淫作用を働くものとか?他にも性的不能や不妊に効く霊薬とかかな〜」
秀綾は顔に手を当て、顔の前で手を振った。
しかし、秀綾の態度をよそに蘭瑛の言葉に食いついた江《ジャン》医官と金《ジン》医官は、獲物を捕らえたように目をぎらつかせて蘭瑛の顔に近づいていく。「ちょっと、あんた。その本懐を遂げるものってやつ、私たちに教えなさいよ!」
「え?何に使うの?」
「阿蘭〜、それは内緒よ。私たちも私たちの秘密があるのよ。ね?」
「そうよぉ〜。誰にも言えない淫猥《いんわい》なことぐらい」
秀綾は蘭瑛の疎さと、どうしようもないオカマの会話に溜め息をついた。秀綾は蘭瑛が作ってくれた、桂花糕《グイホアガオ》を頬張り、窓の外を眺めると見てはいけない何かと目が合った気がした。
秀綾はすぐに振り返り、乱れた脈を整える…。「秀綾?」
「…うん?」
「何かあった?」
「ううん。何も」
蘭瑛の言葉に、秀綾は何もないと見せかけて、抱いた恐怖心を流し込むように一気に茶を飲み干した。
衝撃的な事実を知ってしまった蘭瑛は、あれから永憐と顔を合わすことがてきず、六華鳳宗へ帰らせてもらえないかと、宇辰を通して宋武帝に申し出た。 事情を知った宋武帝は、至急紫王殿に来るように蘭瑛を呼び寄せ、二人で話しをすることになった。 完全に正気を失った蘭瑛を見るやいなや、宋武帝は気を利かせ、今まで見たことのない豪華な花茶を差し出した。「呼び寄せて申し訳ないな。少し外で話そうか」「……は、はい」 随分と涼しさを感じる夜に、紫王殿の庭では蛍がふわふわと光り始めた。 外のカウチに腰を下ろし、宋武帝は蛍の光を目で追いながら静かに口を開く。「いずれはきちんと話さなければならないと思っていたのだが……永憐のことで、君を酷く傷つけてしまって申し訳ない。全ては私一族の責任だ。今更許しを乞うつもりはないが、当時、剣門山に所属していた永憐が、個人的な意思で君の父上を殺した訳ではないことは、どうか分かってやって欲しい。あれは、私の父上が理不尽に下した命令だったのだ……」 宋武帝は物寂しく空を仰いだ。 その横顔がどこか永憐に似ていて、蘭瑛はふと目線を逸らし、宋武帝の言葉を待った。 「永憐とは異父兄弟なんだ。この事実を知ったのは、十年ぐらい前だろうか。あいつは幼い倅を、祝言を控えていた妻の変わりに助けてくれてな……。せめてもの思いでここに呼んだんだが、少し気になるところがあって。ほら、私と顔が少し似ているだろう? だから、あいつの出自をこっそりと調べさせたんだ。そしたら、永憐はあの伝説の剣豪・冠月と母上の間に授かった子であると知って、それはそれは驚いたよ。私は永憐を弟だと思っているんだが、あいつは、自分を物凄く卑下な人間だと思っているらしく、自分は私の配下でいいと、皇弟として自分の立場を絶対に認めようとしないんだ」 何一つ自分のことを話さない永憐に、そんな秘密があったとは誰も知る由もない。 宋武帝は飛んでいる蛍を素手でそっと掴み、蘭瑛に見せながら続けた。「そんなあいつがある日突然、君を連れてきた。色欲も断ち、女の話に一寸とも触れようとしなかったあいつがだ。不器用で言葉足らずな奴だが、君には何か思うところがあったんだろう。誰よりも君のことを考えていたからな」 それは分かる。いつだって側
美しい月夜は儚げに消え去り、夢が覚めていくように二人の元に太陽が昇る。 「蘭瑛、朝だ。起きろ」 「…んーっ。ふぁい」 蘭瑛は欠伸をしながら上体を起こす。 永憐から寝巻きを渡され、寝台から降りて衣をさっと着る。 昨晩のことは途中までしか覚えておらず、途中から疲れ果てて眠ってしまったようだ。 「昨日はすまない。加減を忘れてしまっていた…。身体は大丈夫か?」 「…はい。大丈夫ですよ。私、途中で寝てしまったみたいですね。すみま…」 「せん」と続けようとした刹那、永憐に力強く抱きしめられた。 「嫌いにならないでくれ…」 「…ど、どうしたんですか?急に。永憐様を嫌いになる訳ないでしょう」 永憐は失うのが怖いといったような、どこか不安げな顔を蘭瑛に向けた。 今日から仙術の強化稽古が始まり、しばらく会えなくなると聞かされたが、稽古が終わったらまた会う約束をし、優しく口づけを交わした。 蘭瑛は隣の部屋に戻り、身支度を整えようと、寝巻きを脱いで鏡を見た。すると、首から下の上半身のありとあらゆる場所に、口づけの印を付けられていることに驚愕した。 (あれから、たくさん口づけされたんだっけ…。どうしよう…この無数の跡。何で隠そう…) 蘭瑛はとりあえず、葯箱から包帯を取り出し首元に巻き付けた。医局のオカマ医官に何か言われるかもしれないが、適当に遇らえば問題ない。蘭瑛は冷静さを保ちながら、医局へ向かった。 医局に到着すると案の定、オカマ医官二人に詰め寄られる。 「阿蘭、どうしたのよ?!その傷!ちょっと見せてみなさい」 「一体何をやったのよ…」 「だ、大丈夫だから!本当に直ぐ治る傷だし、二人の心配には及ばないから」 江医官と金医官は、目を細めて蘭瑛を一瞥する。 「阿蘭、また誰かに何かされたんじゃなくて?」 「ったく、女の首元に傷を負わすなんて、どういう神経してんのよ!もし男だったら、男根の先にこれを差し込んでやるんだから!」 金医官は、薬草を混ぜる先の尖った太い銅の棒を光らせた。これは、永憐にされたなんて口が裂けても言えないと、蘭瑛は思わず苦笑いを浮かべる。 「本当に大丈夫だから。六華術を復活させる為に色々やっちゃって…。それで」 「それで、六華術は復活したの?」 江医官に
もう逃げられないと意を決して、蘭瑛は急いで湯浴み処へ向かい、簡単に湯浴みを済ませた。 半乾きの髪を靡かせ、急ぎ足で藍殿へ戻る。 蘭瑛は永憐の部屋の扉の前で「ふぅー」と呼吸を整え、蝋燭の光が漏れている薄暗い奥の部屋に足を踏み入れた。 中に入ると、寝台の上で腰を下ろし、長い髪を垂らした寝巻き姿の永憐が待っていた。 「来たか」 「お待たせ…しました…」 蘭瑛は固唾を飲み、恐る恐る永憐の元へ歩み寄る。 永憐は真顔で、蘭瑛に向かって一言投げかけた。 「覚悟はあるのか?」 そう言われた蘭瑛は、その場で立ち止まった━︎━︎━︎。 決して覚悟がない訳ではない。ただ理由を話さなければと蘭瑛は六華術を回復させる為に、このような事を口走ったと話した。 「ならば、術の為にしたいということか?」 「いや、そ、それだけでは…」 蘭瑛はそれ以上何も言えず俯く。 永憐は間を置いて、もう一度問うた。 「どんな理由があっても、後悔しないか?」 蘭瑛は永憐の事を心から愛している。 いずれは夫婦の契りを交わしたいとさえ思っている。 術が回復することもそうだが、一番は永憐と口づけ以上の結びつきを得たいと心のどこかでは思う。そこに迷いや後悔はない。蘭瑛は心を決めたかのようにハッと顔を上げ、自分の衣の腰紐をしゅるっと外した。 「…しません。何があっても」 そう言いながら、蘭瑛は衣を少しはだけさせ、寝台の上へ登る。 そして、足を伸ばして座っていた永憐の上に跨り、永憐の目の前で衣を完全に脱いだ。 艶やかな肌を見せられた永憐は、蘭瑛の腰にそっと手を回し、蘭瑛の顔に自ら顔を近づけた。 「本当にいいんだな?」 「…はい」 息をする暇もなく、蘭瑛の唇は瞬く間に塞がれた。 永憐は何度も優しく向きを変え、蘭瑛の乾いた唇を湿らせていく。永憐の力強い舌遣いで閉じていた口をこじ開けられ、何度も舌を絡め取られた。舌を這わせ合うたび、水が弾くような音が部屋中に響き、鼻から漏れる荒い息が熱く交わる。 露わになった胸を何度も揉まれ、永憐の細長くて力強い指先で、先の突起を何度も弄られた。 身体全体に体験した事のない電流が走り、蘭瑛は我慢できず「んんっ」と思わず声を漏らす。唇が離れ、互い
それから、今までの輝かしい穏やかな橙仙南の色は消え、朱源陽の武官たちは橙仙南の庶民たちを蔑ろに扱うようになり、逆らおうものなら直ちに打首にされるという理不尽な内乱が勃発した。 橙仙南の一部の軍は朱源陽の傘下に入る者もいたが、深豊《シェンフォン》率いる軍は主に宋武帝の配下に身を置き、永憐たちと並ぶ形で桃園の義を交わした。 朱源陽の理不尽な要求や暴力が日に日に増していくことを懸念した宋武帝は、橙仙南の難民たちを宋長安へ避難させた。宋長安に住む人々の人柄は他所者を嫌う性格ではない為、難民たちとの間には争いや弊害などは生まれず、互いを尊重しあう形で生業を保つことができた。 秋めいてきた夕暮れの下で、蜻蛉の美しい複眼が、飛び回る害虫のハエを捉える。 瞬きをしたほんの僅かの間に、ハエは蜻蛉の口元で砕かれ、もう一度瞬きをした後にはもうハエはいない。 その卓越した動体視覚と俊敏さを駆使して、獲物を一瞬にして捕える。さすが勝利の虫だ。 その様子を窓越しから見ていた宋武帝は、永憐と深豊を紫王殿に呼び出し、向かい合っていた。 何を言われるのか大体想像のつく二人は、出された茶を啜りながら宋武帝の言葉を待つ。 「蜻蛉のようにならねばならんな…」 宋武帝はぼそっと独り言を呟いた。 そして目線を二人に戻し、続ける。 「今後のことについてなんだが…。いつ、朱源陽の矢がこちらに飛んでくるか分からない。いつでもその戦火が飛び込んできてもいいように、お前たち全員が持つ仙術の強化を図って欲しい。それに伴い、宋長安管轄の剣士たちも各方面から呼び寄せることになった。お前たち二人が師範となり、全体の底上げを頼む」 永憐と深豊は、同時に頷き『御意』と返事をした。 力強い二人の返事を聞いた宋武帝は、顔を緩ませ穏やかな表情を向ける。 「お前たちが居れば、私に怖いものなどない」 「全力でお守りします」 「橙仙南を代表して私も…」 永憐の後に続けて、深豊も誠意を表すように言葉を繋げた。 一方、蘭瑛のいる医局では環境に慣れず体調を崩す橙仙南の者たちが多く、問診に追われていた。 「食欲がなくて…」 「気持ちが塞ぎがちで…」 「涙が止まら
「何故お前がここにいる?」 「おっと、これはこれは王国師殿。いやぁ〜、物凄い霊気を感じたので様子を見に来たんですよ。そしたら、あなたに出会した。何か特殊な霊気でも出されたのですか?」 目の前にいる端栄は先程会った端栄と同じだ。 しかし、感じた違和感をどうしても拭えない永憐はまた尋ねる。 「私ではない。剣先を光らせたのはお前か?」 「はて?私はそんな物騒なことはしませんよ。誰かと勘違いなさってるのでは?」 確かに感じた玄天遊鬼の霊気。今はパタリと消え、何も感じない。端栄が続ける。 「まぁ、ここは妖魔が頻繁に出没しますから気をつけてください。あなたとやり合って腕を無くしたまま朱源陽に帰るわけにはいきませんから、今日はあなたではなく、こちらの方に」 すると突然、端栄は蘭瑛に向かって瞬間移動するかのように飛び出し、永憐の隣にいた蘭瑛の身体を軽く突いた。 蘭瑛は急に眩暈を起こし、足元から崩れ落ちる。 「おい、蘭瑛!しっかりしろ!貴様!蘭瑛に何をした?!」 永憐は珍しく声を張り上げ、永冠の先を端栄へ向ける。 「彼女を抱えながら私と戦うのは無理でしょう。彼女の医術は素晴らしいと、玉針経宗の医家が言っていましたからね〜。術滅印で六華術を封じてみました。これで、あなたが今深傷を負っても彼女はあなたを救えない。気をつけてくださいね。それでは」 端栄が瞬時に消えた途端、黒い靄が周囲に広がり永憐の透き通った視界は瞬く間に遮られた。その靄から幾度となく屍が溢れ出し、永憐は意識のない蘭瑛を抱き抱え、蘭瑛が嵌めている翡翠の指輪に更なる強力な守護術をかけた。そして探知術を同時に発動し、永憐は全身に駆け巡る全神経を尖らせ永冠を振るう。何度も袍を翻しながら屍を次々と殺していくのだが…。 しばらくすると、驟雨が永憐の足元を濡らし始めた。 蘭瑛の頬にも驟雨が落ち、きめ細かい白い肌を伝って滴り落ちていく。 最後の屍を斬ろうとした刹那、突然黒い靄が消え、視界が明るくなったと同時に鋭利な刃を持つ鴛鴦鉞が永憐と蘭瑛を目掛けて飛んできた! 永憐は永冠で同時に躱したが、視界の眩しさに耐えられず、もう一発の鴛鴦鉞に気づかなかった。
永憐たちが橙剛俊の宮殿内に着くと、先に来ていた宋武帝と橙剛俊が激しく口論していた。 「兄上がこのような惨虐に見舞われたというのに、どうして平然としていられるのだ?!」 「奴は死ぬべきして死んだんだ!私には関係ない!」 橙剛俊は憤慨し眼球を赤くして捲し立てる。 宋武帝も額に青筋を浮かべて、今にも殴りかかりそうな衝動を抑えながら拳を振るわせていた。 「お前、何か企んでいるのか?!」 「はっ。何を企んでいようと私の勝手だ。あんたには関係ない。今まで散々あいつに振り回され続けたんだ!今こそ橙仙南は自由になるべきだろ!あんたこそ橙仙南を心配してる場合か?あんな奴を心配する前に、自国の心配をしたらどうだ?倅を残してきたんだろ?大丈夫なのか?」 宋武帝は遂に堪忍袋が切れ、橙剛俊の顔を思いっきり殴った。橙武帝が今までどれだけの功績を残し、橙仙南の繁栄を守ってきたか。四国会の統治を守ってくれたのも橙武帝がいたからだ。 橙剛俊は床に伏して赤く腫れ上がった頬を摩る。 「お前とは桃園の儀を結べそうにない。お前が誰かと手を組みその者たちの所へ行くのなら勝手にしろ。しかし、橙武帝を侮辱するような真似は許さない!覚えておけ!」 そう言って宋武帝は踵を返す。 すると橙剛俊は唇を震わせながら、宋武帝の背中に向かって叫んだ。 「あんたこそ、これからどうなっても知らないからな!そこにいるお前らも出て行け!」 ずっと様子を伺っていた永憐の元に宋武帝が来る。 「永憐。私は先に帰る。頃合いを見て帰ってこい」 「分かりました。私たちもここを出よう」 永憐たちは宋武帝の後に続き、救いようのない愚か者を置いて宮殿を出た。 先に帰る宋武帝に宇辰が護衛として付き添うことになり、永憐と深豊は二人を見送る。そして、歩きながら深豊が口を開いた。 「まったく、どうなっちまうんだよ…これから」 深豊は溜め息を吐きながら、門の近くにある石畳みの階段に腰を下ろす。 永憐は何も言わず、遠くを見るように目線を上げて空を仰いだ。永憐の碧色の瞳には雲の模様が浮かび、わざと一抹の不安と恋慕を掻き消しているようにも見えた。 するとそこに、橙剛俊の倅・橙風宇が一人、日傘で顔を隠す様にしてやってきた。 「兄様方にお話しがご